関西ローカル線・筆歩(ピッポー)
1989年8月、日刊工業新聞・近畿圏版に連載
 
 
 
  この新聞記事は1989(平成元)年8月、日刊工業新聞の近畿圏版に17回シリーズとして掲載されたものである。実はこれが私にとってスケッチの最初の一歩。学生時代に少しやっていたスケッチの面白さを思い出し、その後次第にのめり込みながら30年が経過、現在に至っている。スケッチといっても写真から描いたものだし、今から見るとその出来も恥ずかしい限りだが、「最初の1枚」として初めてネットに載せることにした。新聞連載に先立ち私自身が和歌山から福井まで6府県を車で走り回って写真を撮った。記事は、ローカル鉄道会社としての当時の苦闘、奮闘ぶりを、各地域の担当記者に執筆してもらった。(各ローカル線の【メモ】は、ホームページに掲載した2019~2020年時点での記述)  
 
 
     
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)①紀州鉄道  
  【紀州鉄道メモ】(不動産業を主力に)紀州鉄道は1931(昭和6)年、御坊臨港鉄道(御坊駅~日高川駅3.4㎞)としてスタート、その後、紀州鉄道に社名変更し、1979(昭和54)年に不動産業の鶴屋産業の翼下に入った。1989年に西御坊駅~日高川駅間を廃止し、現在も御坊駅~西御坊駅2.7㎞を運行している。会社の本社は東京都中央区に置き、不動産業とホテル業を主力としている。右側の絵は廃止になったばかりの日高川駅付近。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)②有田鉄道  
  【有田鉄道メモ】(2003年に廃止)有田鉄道は木材や沿線で採れるミカンなどの輸送を目的に1915(大正4)年に開業、ミカン列車が藤並駅から国鉄線へ乗り入れ、全国へ向かったという。しかし貨物輸送は次第にトラックに取って代わられ、1984(昭和59)年に貨物輸送は廃止。その後、乗客数も減り続け、2003年(平成15)年1月に鉄道路線も廃止となった。会社自体は現在バス事業者として運営されている。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)③野上電鉄  
  【野上電鉄メモ】(1994年に廃止)野上電鉄は上の記事にもあるように1913(大正2)年に会社を設立、1916(大正5)年年2月に開業した。海南駅のすぐそばにある日方駅から生石高原への上り口にある登山口駅まで11.7㎞を結んでいたが、開業は国鉄紀勢本線が海南まで伸びてくるより8年も前であった。しかし、近年は次第に経営が悪化、1994(平成6)年に鉄道線が廃止となり、バス事業も売却して会社を解散した。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)④水間鉄道  
  【水間鉄道メモ】(外食チェーンの子会社に)水間鉄道は大阪府貝塚市の南海電車・貝塚駅と水間観音駅(2009年に水間駅を改称)の5.5㎞を結んでいる。この記事を掲載した1989年当時は、乗客の減少に苦しみながらも、近々開港する関西空港などに希望をつなぎ、線路の延長計画さえ持っていた。しかしバブル期の不動産投資が裏目に出て、2005年4月に会社更正法の適用を申請。その後、外食チェーン・グルメ杵屋の支援を受け、2006年4月に更生計画を終了、現在、同社の完全子会社として鉄道事業やバス事業を営んでいる。  
 
 
   
   関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑤阪堺電軌・阪堺線  
  【阪堺電軌・阪堺線メモ】(南海電鉄の子会社として)通天閣の近くの恵美須町駅と堺市の浜寺公園近くの浜寺駅前駅をのんびり結ぶ路面電車として、地元の人や鉄道ファンの人気を集めている。元々は南海鉄道(現・南海電鉄)に対抗する路線として開業したが、幾多の歴史を経て今は南海電鉄の子会社として運営されている。浜寺駅前駅は名前の通り南海電鉄・浜寺公園駅の駅前にあり、添付スケッチのように味気ないが、南海・浜寺公園駅の駅舎の方は、辰野金吾らが設計した私鉄最古の駅舎として魅力的な建物だった。しかし高架工事に伴い現役を引退した。南海・浜寺公園駅駅舎のスケッチはこちら  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑥阪堺電軌・上町線  
  【阪堺電軌・上町線メモ】(200㍍短くなった)記事にあるように阪堺電軌の上町線は当時、天王寺駅前駅と住吉公園駅4.6㎞を結び、帝塚山の高級住宅街を抜ける”都心のローカル線”として人気を集めていた。しかし、2016年1月末に阪堺線と交差していた住吉駅と住吉公園駅間200㍍が廃止となり、現在の営業キロ数は4.4㎞に減っている。記事の挿絵に使っている住吉公園駅そのものが現在はなくなってしまった。右側のスケッチは阪堺電軌・阪堺線で使った挿絵のカラー版。上町線の沿線スケッチがこちらに。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑦能勢電鉄  
  【能勢電鉄】(車体塗装も阪急色に)2003年には兼営していた不動産事業から撤退、その後、経営合理化のため阪急との運営一体化を積極的に進めている。新聞掲載時は車体塗装もスケッチの通り、能勢電オリジナルカラーだったが、これも2003年からいわゆる阪急カラーに統一された。妙見口駅周辺で悠彩会のスケッチ会が催されたことがあり、その時のスケッチがこちらに。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑧神戸電鉄・粟生(あお)線  
  【神戸電鉄・粟生線メモ】(存廃論議が浮上)かつて利益が上がっていた神戸市域で神戸市営地下鉄などとの競合が激しくなったこともあり、2001年度から粟生線全体で毎年10億円の赤字が出ているそうで、会社側と神戸市、三木市、小野市の沿線都市との間で存廃を巡る論議が活発になっているとか。三木市へスケッチに行ったとき市内中心部を流れる美嚢川の鉄橋を渡っていた神戸電鉄の姿をスケッチしていた。こちらに。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑨三木鉄道  
  【三木鉄道・メモ】(2008年に廃止)かつての国鉄加古川線(加古川~谷川)には高砂線、三木線、北条線、鍛冶屋線という枝線があった。1987(昭和62)年の国鉄民営化によるJR発足に前後して、まず高砂線が1984(昭和59)年12月に廃止され、1985(昭和60)年4月に三木線が「三木鉄道」、北条線が「北条鉄道」という第3セクター鉄道に引き継がれた。一番元気だった鍛冶屋線はそのままJRに残ったが、1990(平成2)年4月には廃止になってしまった。三木市などが出資した三木鉄道は三木駅が三木市の中心部から外れていたこともあって乗客数が伸びず、発足当初から赤字に苦しんでいたが、結局、2008(平成20)年4月に廃止された。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑩北条鉄道  
  【北条鉄道・メモ】(イベント列車に活路)北条町は三洋電機発祥の地でかつて同社の大工場があったが、現在はイオンモールになっている。兵庫県や加西市などが出資する第三セクターとして再発足してからも北条鉄道は業績不振に苦しんでいる。このため、1、2月にはおでん列車、夏休みにはかぶと虫列車、7、8月にはビール列車、クリスマスにはサンタ列車といったさまざまなイベント列車を走らすなどさまざまな乗客誘致策を行ない収益アップに努めている。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑪北近畿タンゴ鉄道  
  【北近畿タンゴ鉄道・メモ】”上下分離方式”で存続 新聞記事掲載当時は福知山~宮津間に新線が開通した直後で沿線も活気に溢れていたが、その後、ややこしい経過をたどり、現在に至っている。記事にあるように1989年8月に社名を「宮福鉄道」から「北近畿タンゴ鉄道」に変更し、1990年4月にJR・宮津線(西舞鶴~豊岡)を引き継いだ。2015年4月以降、施設保有と鉄道運行を分離する”上下分離方式”で再建を果たすことになり、北近畿タンゴ鉄道は線路などの施設保有会社となり、WILLER TRAINS(株)に鉄道運行事業を移譲、通称「京都丹後鉄道」として運行する体制となっている。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑫京福電鉄・嵐山線  
  【京福電鉄嵐山線・メモ】観光路線として存在感 新聞記事掲載当時、京福電鉄は福井県にも路線を持っていたが、2003年にえちぜん鉄道に福井県での鉄道事業を譲渡した。嵐電の乗降客数は1965年の年間1483万人をピークにその後600万人台まで落ち込み低迷していた。2008年に京都市地下鉄と直結するなどで最近は700万人台にまで回復している。2009年10月には同じように観光路線を歩む江ノ島電鉄の姉妹提携、2011年にはヤマト運輸と提携して電車で宅配貨物を運ぶなど、独自路線を打ち出している。なお、挿絵の「竜安寺道駅」とあるのは「妙心寺駅」の間違い。  
 
 
   
   関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑬叡山電鉄  
  【叡山電鉄メモ】京阪電鉄の完全子会社として  この記事が掲載された1989年の10月に京阪電鉄の線路が出町柳まで延伸されたことにより、乗客も倍増した。しかし多額の累積赤字を抱えていたため、1991年11月に京阪電鉄が筆頭株主となり2002年3月には完全子会社となって、いわば京阪と一体となり再建路線を歩んでいる。1997年には展望列車「きらら」を導入するなど、乗客誘致にさまざまな工夫を凝らしている。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑭近江鉄道  
  【近江鉄道メモ】全線の存続が決定 懸命の経営努力にもかかわらず、1994年以来赤字が続き、2018年12月、鉄道事業の維持が困難になったとして沿線自治体に支援を求めた。滋賀県のほか沿線5市5町こよって「近江鉄道線活性化再生協議会」が設置され、自治体の支援を得て鉄道を存続させるか、バスに転換するを比較検討した結果、鉄道を維持した方が安上がりだとして、2020年3月、全線の存続が決定した。  
 
 
   
  関西ローカル線・筆歩(ピッポー)⑮信楽高原鉄道  
  【信楽高原鉄道メモ】繰り返す悲劇 記事掲載から2年後の1991年5月14日、信楽高原鉄道に乗り入れて信楽へ向かっていたJR臨時快速と正面衝突事故を起こしてしまった。死者42人という大惨事で、その年の12月まで運休を余儀なくさせられた。2013年には上下分離方式で再建を果たすことになり、線路や車両など設備全体を甲賀市に譲渡した。同年9月、台風18号で橋梁が流失、2014年11月まで運休を余儀なくさせられた。常に廃線の危機にさらされているといえる。一方で、近江鉄道と信楽高原鉄道をつなぎ、さらにJR片町線(学研都市線)とつないで、米原駅から信楽を通り、大阪まで連絡しようという「びわこ京阪奈線(仮称)」鉄道構想に取り組もうという動きもある。  
 
 
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