郵趣サービス社 趣味の切手コレクションその1
蒲X趣サービス社によるコレクション用切手「日本の町並み スケッチ紀行」の頒布会がスタートしました。09年11月から11年6月まで20回にわたり、毎月2リーフ、全40リーフが頒布されました。このページはその前半分。

頒布されるリーフは、スケッチと同デザインのフレーム切手(50円)と、その町の風景消印および解説文で構成されています。








              上賀茂・社家町(京都府京都市) 10年8月頒布
 京都市街地の北の端にある上賀茂神社は、下鴨神社とともに賀茂氏の氏神で、京都三大祭の一つである葵祭の神事で知られている。賀茂氏は平安京ができる以前の京都盆地で勢力を持っていた豪族の一つで、新しい都の造営に協力したとされる。平安時代に始まった葵祭は勅使が京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社を訪問する形をとっている。
 神社の境内を「楢の小川」という清流が流れているが、境内を出たところで東に流れを変え、名前も「明神川」となる。この川に沿って分厚い土塀が連なり、各家の門のところに小橋が架かる独特の風景が広がるが、このあたりが上賀茂の社家町で、平安時代から上賀茂神社の神官たちが生活してきた町である。
 各家の庭園には池があり、明神川から水を引き入れ、また明神川に戻す仕組みになっている。明神川の分流が庭の中を流れているわけで、池の水は「みそぎ」の神事にも使われる。たまたま、この社家町に知り合いの家(神官ではなかったが)があって、たびたびお邪魔した経験があり、そんな水流の仕組みを目の当たりにすることができた。
 上賀茂の名物に「すぐき漬」という漬物がある。上賀茂でしか栽培されない「すぐき菜」を塩漬けして発酵させたもので、独特の酸味があってとてもおいしい。この「すぐき菜」の栽培も社家の間で広まり、やがて周辺の農家で作られるようになったといわれる。 
 明神川沿いに藤木社(ふじのきのやしろ)という小さな祠があり、巨大なクスノキが生えている。社家の土塀の連なりに、祠の赤い柵、クスノキとバックの比叡山を組み合わせた風景は京都でも人気のスケッチアングルである。

               角館(秋田県仙北市)10年8月頒布
 重要伝統的建造物群保存地区という制度は1975年(昭和50年)の文化財保護法改正に伴いスタートした。市町村の申し出により国が選定するもので、現在では全国で80カ所を越える地区が選ばれているが、19769月に「角館」のほか「妻籠宿」(長野県)など7地区がその第1陣となった。そういう点からみて、角館は町並み保存運動の先駆者であり、東北地方を代表する歴史的町並みということができる。
 角館は関ヶ原の戦いから20年経った1620年に城下町として整備された。「火除」(ひよけ)と呼ばれる広場を挟んで、北側は「内町」(うちまち)と呼ぶ武家屋敷町とし、南側は町人や商人が住む「外町」(とまち)とされた。390年を経た現在でも当初の町割りがほぼ踏襲されている。
 重伝建地区になっているのは内町で、10m幅のゆったりとした道に沿って武家屋敷が建ち並んでいる。延々と黒板塀が連なり、屋敷内に植えられたシダレザクラやモミといった木々がうっそうとした木立を作っていて、散策するといかにも気持がよい。多くの武家屋敷に主屋が残り、それらが公開されていることもあって、観光客の人気を集めている。
 ただ、スケッチ対象としてとらえると、好みの問題もあるが、育ちすぎた木々は私の手に負えない。そこで商家が並ぶ外町に場所を移して老舗の味噌醸造店を描いた。通りに面してレンガ造りの座敷蔵(仙北市指定文化財)があり、絵になる。外町はたびたび火災に見舞われたため、明治時代中期に、当時冠婚葬祭用として重要な役割を果たしていた座敷を火災から守ろうと外装をレンガ造りにしたという。


             首里金城町(沖縄県那覇市)  10年7月頒布
 歴史的町並みが現在まで残っている第一条件は戦災に遭わなかったことである。このため全島が壊滅的な被害を受けた沖縄では、1987年(昭和62年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された竹富島などの離島を除き、少なくとも沖縄本島には古い町並みは残っていないと思っていた。
 ところが写真集などを見ていて、那覇市の都心近くに魅力的な町並みが残されていることを知った。焼き物の町「壺屋」や「首里金城町の石畳道」で、いずれも那覇空港から近い。当時、福岡市に住んでいたため、“コスト面”を除けばいかにも行きやすい場所にある。そこで土日を利用して1泊でスケッチに出かけたが、スケッチだけで他の観光なしという、考えてみればずいぶん贅沢な旅行であった。
 首里金城町は首里城丘の南面に広がる城下町で、有名な守礼門の近くからこの町内を一気に下る長さ300mほどの石畳道がある。琉球王朝時代の15世紀初めに首里城と那覇軍港などを結ぶ約10kmの「真珠道」(まだまみち)が整備されたが、戦災などをくぐり抜けて、この区間だけが往時の姿をとどめているのだという。
 琉球石灰岩を丁寧に敷き詰めた石畳道に沿って、沖縄独特の赤瓦屋根の民家もあり、まさに絵になる風景である。「日本の道百選」や沖縄県指定有形文化財にも選ばれているが、2001年(平成13年)に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」で、画面にたびたび登場した。スケッチした場所は絶好の記念撮影ポイント。長い間座り込み、観光客の皆さんにさぞ迷惑をかけたのではないかと思っている。


            本郷・菊坂下(東京都文京区) 10年7月頒布
 仕事では何回も行った東京だが、初めてスケッチ目的だけで出かけることにした。何しろ東京の地理には明るくないので、いろんな方々にアドバイスしてもらい、目標の一つに定めたのが文京区の本郷であった。出かける前に司馬遼太郎の「街道をゆく・本郷界隈」にも目を通した。
 本郷は江戸時代には江戸の外れだったが、加賀藩前田家上屋敷だったところに東京大学が置かれて以来、東大と何らかの関係を持ちながら新たな歴史を刻んできた。夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥、樋口一葉といった文豪ゆかりの地も多い。文学にも明るくないが、知人のスケッチに樋口一葉旧居跡を描いたものがあり、木造3階建ての建物が並ぶ路地風景が印象的だったので、ぜひともと思って訪ねてみた。
 本郷は坂の町だという。地図を見ると「見返り坂」だの「鐙坂」、「炭団坂」など何だかスケッチしたくなるような坂の名前がたくさんある。よほど複雑な地形だろうと思いながら訪ねると、なるほど坂ばかりであった。
 樋口一葉旧居跡は、「菊坂」というなだらかな坂を下ったところにあった。あとで聞くと東京では人気のスケッチポイントだそうだが、あまりにも狭い路地の奥にあるため、近所の方々に気兼ねしながら描いた。続いて、そのすぐそばの菊坂下交差点近くで、樋口一葉がたびたび通ったという「旧伊勢屋質店」を描いた。今は営業していないが、その建物は国の登録文化財に指定されており、菊坂の幅広い道に面しているので、こちらはだれにも気兼ねする必要がない。
その日予約していた宿は、さらに「胸突坂」という急坂を上ったところにあった。


               鞍馬寺門前(京都府京都市) 10年6月頒布
 京都市左京区はとても奥が深い。京都大学がある市街地も左京区だが、鞍馬を経て、その区域は福井県境近くまで続いている。以前は鞍馬から峠を越えたところにスキー場もあった。京都の市街地から電車で30分の鞍馬はまだほんの入り口といえる。鞍馬寺の門前を通る道は鞍馬街道と呼ばれ、点在する丹波の山里を縫いながら山の奥へ奥へと延びている。
 牛若丸(源義経)が修行したといわれる鞍馬寺は、都が平城京から平安京へ移されたのとほぼ同時期に創建されたという長い歴史がある。鞍馬駅で電車を降りた観光客の大半はそのままお寺へ吸い込まれていくが、その門前を通り過ぎて山奥へ向かう鞍馬街道には、しばらくの間、古い街道町の風情を残す家並みが続いている。
 門前町は鞍馬寺の鎮守社でもある由岐神社の社家や鞍馬寺の僧兵が住み着いたのがその始まりとされるが、一方でこの門前集落は薪や炭など丹波地方から都へ運ばれる物資の中継基地ともなった。街道筋には作業がしやすいように軒を深く取った家々が並ぶ。そのなかに江戸時代中期に建てられた重要文化財指定の滝沢家住宅がある。屋根に「うだつ」が揚がる同家も薪炭問屋であった。
 絵は鞍馬駅を降りてすぐ、正面に鞍馬寺の仁王門が見える場所でスケッチしたもので、手前には土産物店が並んでいるが、石段の下を右に折れると、一転して街道町の雰囲気になる。家並みの背後から鞍馬川の清流の音が聞こえ、鞍馬名物の「木の芽煮」のよい香りが流れてくるなど、スケッチしていると同時に五感も楽しませてくれる環境である。


                村田(宮城県村田町)  10年6月頒布
 「村田」の歴史的町並みは東北自動車道・村田インターを降りてすぐという便利なところにあった。もともと奥州街道の宿場町で、江戸時代初期には市も立っていたといわれる。仙台・伊達藩が染料となる紅花や藍の栽培を奨励したため、江戸時代後期になって、周辺から集めたこれらの商品を江戸や上方へ送る商取引が盛んになり、「村田商人」と呼ばれる豪商が誕生、今に残る店蔵の並ぶ町並みをつくりあげた。
 紅花の商いは明治時代になって衰退するが、その後も米や生糸、薪炭、塩などの取引で村田の町は繁栄を続けた。20数棟残る店蔵のなかには昭和初期の建築もあるといわれる。南北に延びる通りに沿って土蔵造りの店蔵と薬医門とが一対となった商家がずらりと並ぶ様は、いかにも豪勢である。中国地方の建築物でよく見られるナマコ壁の装飾も効果的に使われている。最近では川越(埼玉県)や喜多方(福島県)と同じように“蔵の町”と呼び、春や秋には各種のイベントを行って町おこしに結び付けている。
 ひと通り町並みを歩いたあと、公開施設となっている「やましょう記念館」という建物に焦点を当ててスケッチした。しかしガイドブックには「表通りだけでは村田の本当の値打ちは分からない」とある。なるほど門から屋敷の中をうかがうと、どの家も奥に向かってずらりと土蔵が並び、路地が裏口まで続いていて、これが村田の商家の特徴という。やましょう記念館はこの日、町の関係者が古文書を調べるとかで休館だったが、「大阪からはるばるやってきた」というと、管理人さんが特別に門を開けて庭まで入れてくれた。


                倉敷本町(岡山県倉敷市) 10年5月頒布
 倉敷市中心部の伝統的町並みは全国で最も知名度の高い存在といえよう。多くの観光客を集めている倉敷川畔の美観地区(中央
1丁目)をはじめ、そこから一筋裏道に入った本町や東町にも、本瓦葺き、白壁づくりで、なまこ壁を効果的な装飾に生かした豪勢な町家が無数にある。1979年(昭和54年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

 倉敷は江戸時代初期に幕府領(天領)となり、物資の集散地として栄えた。倉敷川で瀬戸内海とつながり、蔵が並ぶ倉敷川畔は物資の積み下ろしでにぎわった。現在の美観地区である。江戸初期には「古録」(ころく)と呼ばれた13家の商人の合議で町が運営され、後期になると実権は「新録」(しんろく)という25家に引き継がれた。明治になってこの新録の中の大原家が紡績業を興し、倉敷のさらなる発展につながっていく。倉敷の町並みや美術館などの施設が充実しているのは、こうした長い間の財の集積の結果である。
 倉敷で一度腰を据えて描いてみようと泊まりがけで出かけた。夕方、駅前のホテルに入り、日暮れまでの時間を下見に当てた。何しろスケッチポイントが多く、目移りしそうだったからである。実際にこれが翌日のスケッチに大いに役に立った。
かつてのメーンストリートだった本町通には、倉敷最古の町家で国の重要文化財指定の井上家住宅のほか、さまざまな職種の伝統的町家が並び、生活感もある。前夕の下見で、一つだけ計算違いがあった。井上家の前に行ってみると、スケッチを予定していた場所で道路工事が始まっているではないか。仕方なく、遠目からその工事風景も入れて描いた。


               五個荘(滋賀県東近江市) 10年5月頒布
 琵琶湖の東岸・近江平野のほぼ中央部にある五個荘(ごかしょう)は、近江八幡、日野などとともに「近江商人の故郷」と呼ばれている。近江商人は天秤棒をかついだ行商から身を興し、次第に全国に商圏を広げ、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」を理念として財をなした。関西系大手総合商社や百貨店、繊維メーカーなど現代の大企業にも近江商人の流れを汲むとされるところが数多い。
 江戸時代初期にまず八幡商人が、続いて江戸中期からは日野商人が活躍を始めた。五個荘の商人は江戸後期から明治時代にかけて活動を開始したため、両者に比べれば100年以上も「後発」だが、とくに金額の張る繊維や呉服関係の商品を得意分野としたことから、その後、大いに成長した。
 五個荘商人は地元に本宅だけを置いた。このため1998年(平成10年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された五個荘金堂町などには、店構えのある商家建築は見られず、贅を凝らした広大な邸宅だけが並んでいる。いずれも明治から大正時代にかけて建築されたもので、文化庁の分類で五個荘は「農村集落」となっているが、「邸宅町」と呼んだ方が適切な感じがする。
 邸宅が並ぶ町というのは、塀が目立つばかりで絵にしにくいものだが、舟板を越壁に使った白壁土蔵などがモチーフとなる。漆喰壁の丁寧な仕上げに、その財力をうかがい知ることができる。この町のもう一つの魅力は地区内を縦横に走る水路。豊かな水が流れ、観光用に鯉も放たれている。


                伊根の舟屋(京都府伊根町)  10年4月頒布
 京都府北部・日本海に突き出た丹後半島の付け根に伊根の舟屋群がある。舟屋とはいわば漁船のガレージで、海側から眺めるとその入り口がずらりと並び、何度見ても珍しい風景である。舟屋は230棟以上あるという。2005年(平成17年)に漁村では初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 伊根湾は入口が狭まった奥の深い湾のため荒波は立たず、しかも湾口は南向きで、背後にある山が冬の北風を防いでくれる。また、年間を通じての干満の差が5060cmだそうで、こうした自然条件が不思議な建物を可能にした。舟屋は作業場を兼ね、その2階は若夫婦の居室や隠居部屋などとして使われ、最近は民宿として活用しているところもある。
 伊根は古くからブリ漁で知られる豊かな漁村で、かつては湾内でクジラもとれたという。集落内を通る道路を挟んで、山側に主屋、海側に舟屋がある。その道路が湾の奥まで開通したのは昭和初期のことで、それまでは舟屋の入り口が各家の玄関そのものであった。
 海からの眺めに特色がある伊根では、カメラでの撮影なら船に乗ればよいが、スケッチはそうはいかない。幸いなことに町役場のある平田地区と伊根湾の奥にある亀島地区は入り組んだ地形で、陸上からこの風景を見ることができるポイントがあった。
 伊根にはグループでスケッチに出かけたが、幹事役が舟屋に泊まれる民宿を探してくれた。夜、波の音を聞きながらみんなで一杯やっていると、階下から民宿の奥さんが「珍しいものが見られるよ」声をかけてくれた。手にした竿で海面をたたくと、青白い光の帯がさっと広がっていった。初めて目にする夜光虫だった。


                 山町筋(富山県高岡市)  10年4月頒布
 高岡の町は、加賀藩の2代藩主前田利長が隠居後の生活の場として1609年(慶長14年)高岡城を築き、城下町を整備したことに始まる。ところが一国一城令により6年後には廃城となってしまった。城下町の衰退を懸念した3代藩主前田利常が、商人の金沢への引っ越しを禁止したほか、鋳物という新たな産業を育てたことで、その後も加賀藩の商工業の中心地として栄え続けることになる。
 山町(やまちょう)筋はJR高岡駅の北西・旧北陸街道に沿った町々を指す。商業の中心地だったが、1900年(明治33年)に大火があったのをきっかけに、道路が拡張され火災に強い土蔵造りの建物が建てられた。現在でも多くの土蔵造りの商家が軒を連ね、大正建築である赤レンガ造りの銀行の建物なども混じった魅力的な町並みとなっている。2000年(平成12年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 土蔵造りの建物は川越、栃木など関東平野の都市で目立つが、これらがいかにも重厚な印象なのに対し、高岡のそれは多少、西日本風の軽やかさを感じる。絵は重要文化財指定の菅野家住宅だが、明治後期という建築年代を反映、建物内部構造だけでなく敷地の境にレンガ造りの防火壁を設けるなど洋風建築の技術を取り入れているのが特色である。
 高岡には山町筋のほかに金屋町という歴史的町並みがもう一つある。こちらは町名が表すように鋳物の町で、城下町の町割りでは、火災の危険を避けて千保川という川の対岸に置かれた。重伝建地区ではないが、スケッチ対象としてみるとこちらの方が魅力的である。


                美山町北(京都府南丹市) 10年3月頒布 
 
美山町北地区の茅葺き民家集落の存在を知ったのは、週刊誌のグラビアに「日本の原風景」として紹介された写真であった。さっそく訪ねてみたが、今のように観光客の姿もなく、また多くの茅葺き屋根にはトタンが被せられ、素朴な農村風景が広がるばかりであった。
 
北地区に限らず美山町一帯には多くの茅葺き民家が残っている。「北山型」と呼ばれる入母屋型の民家で、とくに北地区では50棟の建物のうち38棟が茅葺きである。同地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは1993年(平成5年)だが、それよりも前の1988年(昭和63年)に住民組織として「かやぶき屋根保存組合」(現・かやぶきの里保存会)ができた。茅葺き屋根を保存するには、茅の確保と保存、職人や手伝いの人手の確保が課題となる。そうした課題を住民自らが克服していこうという動きであった。
 
2000年(平成12年)には景観の保全と地区住民の生活との両立を目指し、住民の出資による「有限会社かやぶきの里」が設立され、食堂や土産物店、民宿などの運営に乗り出した。そうした努力の結果、多くの茅葺き屋根が復元され、観光バスまでが押しかける大観光地に変身していった。いつもは広い田んぼの向こうに階段状に並ぶ民家群を描くことが多いが、紅葉に誘われて出かけたこの時は、一度、俯瞰を描きたいと思った。土産物店の人に場所を聞くと「熊が出るのでお勧めできません」という。仕方なく、集落の裏手の杉林に入り込み、苦労してこのアングルを見つけた。


                 奈良井(長野県塩尻市) 10年3月頒布
 旧中山道の木曽路には木曽11宿と呼ばれる宿場があったが、このうち奈良井宿は最大の難所といわれた鳥居峠の北麓にある。京へ上る旅人は峠越えに備えて奈良井宿で宿泊することが多く、「奈良井千軒」と呼ばれるほどの賑わいをみせていた。たび重なる火災があり現在の建物の多くは幕末から明治にかけて再建されたものが多いそうだが、板葺き石置き屋根の伝統を引き継ぐ軒の深い家並みが1.2kmにわたって折り重なるように続いている。 
 スケッチのため訪問した日は、時折、小雨がぱらつくあいにくの天候だったが、屋根が
2メートル近くも張り出している軒下に陣取れば安心である。宿場は上町、中町、下町と分かれ、そのうちの中町には本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが集中していた。現在でも何軒かの宿が昔の姿で営業していて、そのうちの1軒に泊ったが、今風の旅館と違い隣室の声が丸聞こえという不便さはあったものの、往時の旅人の気分を味わうことができた。
 木曽路の宿場には湧水が流れ出す水場を設けているところが多い。奈良井にも屋根をかけた4カ所の水場があり、贅沢にもスケッチにはすべてこの湧水を使った。多少は絵の出来に影響したかもしれない。
 奈良井は妻籠より2年遅れの1978年(昭和53年)、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。昼食に入ったそば屋はおばあさんが一人で切り盛している様子だったが、「町では独居老人家庭が増え家屋の維持も大変なんですよ」といいながら、名物のホウバ餅をサービスしてくれた。


                 伏見(京都府京都市)10年2月頒布
 「伏見」は多様な歴史に彩られた町である。もともとは豊臣秀吉の城下町として整備されたが、江戸時代になると伏見城は取り壊され、城下町としての歴史は終わった。しかし、その後は淀川の水運を背景とした交通の要衝として復興した。京都の中心部との間に高瀬川が開削され、伏見港を経て“大坂”とは三十石船で結ばれた。人や物の流れの拠点となり、産業も集積した。
 
とくに江戸時代に起こった酒造業は明治時代になって急速に発展した。伏見という地名は「伏し水」が変化したものといわれ、良質で豊富な地下水に恵まれていたことから、日本を代表する酒どころとなった。
 幕末の鳥羽伏見の戦いでは、今、多くの酒蔵が並ぶ南浜町辺りが戦場となったが、すぐに復興、明治になって日本で初めての電車もこの町にやってきた。伏見という地名は「京都ではない」と主張しているような響きがある。伏見町が伏見市になったのは1929年(昭和4年)で、31年にはもう京都市伏見区になった。しかし、たった23年のことなのに、今でも地元では「昔は独立した市だった」との話がよく出る。
 酒蔵はスケッチ愛好家が好む題材の一つ。酒蔵はいわば製造工場で、屋敷町にある白壁土蔵に比べると、造りは必ずしも丁寧とはいえない。しかし、独特の機能美が絵心をくすぐるのかもしれない。伏見と並ぶ酒どころの灘五郷では阪神淡路大震災で古い酒蔵がほとんど姿を消したため、酒蔵が集積する伏見の景観はより貴重な存在になった。


              銀山温泉(山形県尾花沢市)  10年2月頒布
 町並みスケッチをするようになって山形県の山間部にある「銀山温泉」はあこがれの地の一つになった。銀山川に沿って34階建ての大正風木造旅館が建ち並ぶ珍しい風景は写真などでよく紹介され、テレビで冬の雪降ろしに苦労する様子を見たこともある。しかし、関西人にとって東北地方の温泉はいかにも遠い。「定年になったら行こう」というのがいつの間にか夫婦間の約束になっていた。
 銀山温泉という名前は江戸時代初期に栄えた延沢銀山に由来する。銀山そのものは1689年(元禄2年)に閉山になってしまうが、銀山の坑夫が見つけたという温泉はその後も湯治場として生き残る。明治時代は川に沿って茅葺きの旅館が並ぶ素朴な風景だったが、大正初めに洪水で壊滅的被害を受けた。1926年(昭和元年)に源泉ボーリングで高温大量の湯が湧出したこともあり、各旅館がそろって洋風多層木造建築に建て替え、今も残る風景ができあがったという。
 銀山温泉を一躍有名にしたのは1983年(昭和58年)4月から1年間放送されたNHKの連続ドラマ「おしん」であった。その舞台になり、現地ロケも行われた。1986年(昭和61年)には銀山温泉家並み保存条例が制定され、風情ある景観を守ることにもなった。
 温泉へは午後早目に到着、宿泊する旅館そのもののスケッチに挑んだ。出発前に何回も写真を眺めていたが、実物を目の前にするとさすがに迫力がある。この温泉は道が狭いため、宿泊客は近くの駐車場から徒歩でやってくる。道端でスケッチしている姿はまるで温泉場の見世物のようになってしまった。


                北野町(兵庫県神戸市)10年1月頒布
 欧米から開国を迫られ神戸が開港場となったのは1867年(慶応3年)のこと。さっそく港の近くに居留地が設けられたが、外国人の増加に伴い、港を一望できる北野町(きたのちょう)周辺が住居地として注目された。明治、大正時代を通じて、木造洋館のいわゆる異人館が集積し、昭和初期にはその数300棟を超えていたという。
 戦災の被害は少なかったが、高度経済成長の1960年代、再開発の波にさらされて、多くの洋館が惜しげもなく取り壊されるなかで、専門家などによる建物保存運動が起き、一部の建物は明治村(愛知県)などに移築された。1965年(昭和40年)以降、町並み全体の保存を求める組織が相次いで生まれ、1980年(昭和55年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるに至った。1995年(平成7年)の阪神淡路大震災ではそれまで残っていた約80棟のうち10数棟が姿を消し、他の建物も大きな被害を受けたが、比較的早期に復旧、内外から観光客が押し寄せる一大観光スポットとなっている。
 北野町の異人館にはそれぞれ愛称が付けられているが、やはり「風見鶏の館」と呼ばれる旧トーマス住宅(国指定重要文化財)が一番人気であろう。その風見鶏の館を見下ろす形で北野天満神社がある。もともと北野町という地名はこの神社に由来する。1180年に平清盛が京都から神戸の福原に遷都する時、鬼門鎮護のために京都の北野天満宮を勧請したものだそうだ。福原の都はたった170日の運命だったが、その時にできた神社は今でも大繁盛。洋館群の中にいかにも日本的な鳥居が建つ風景も面白い。


                河原町(兵庫県篠山市)10年1月頒布
 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が大坂の豊臣勢への包囲網の一つとして天下普請で篠山城を築城、篠山の町はその城下町として整備された。城下町には武家屋敷町と商業町の歴史的町並みが残っている場合が多いが、武家屋敷町は塀と門が残るぐらいで、商業町として発展した地区の方が町並みスケッチの対象としては魅力的だと感じている。篠山の場合も同様である。
 篠山では市内中心部にある城跡の西側に武家屋敷町、東南側に商業町の町並みが残っている。武家屋敷は城内に家老、外堀の周辺に家臣、その外側に徒士や足軽と計画的に配置された。明治維新で家老や家臣が町を離れ、武家屋敷町は寂れたが、現在でも通称・御徒士町通には、珍しい茅葺の母屋や長屋門が残る町並みが続いている。商業町では河原町(かわらまち)にある「妻入り商家群」が貴重な存在である。この商業町も城下町整備の一環として、町の入り口に当たる街道筋に計画的に配置されたという。2004年(平成16年)12月に町割りが旧態をよく保っているとして重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 篠山へは戦前の一時期に軽便鉄道が通じていたが、それ以外は鉄道と無縁な町であった。駅がないため、全国共通現象である駅前再開発事業などが起こらず、城下町の風情を現在までに伝える結果となった。一方で「丹波の黒豆」に代表されるような農産物のブランド化に成功、近年になり高速道路が開通したこともあって、河原町の商店街にも観光客の姿が目立ち、上手な町おこしをしている


                八幡堀(滋賀県近江八幡市) 09年12月頒布 
近江八幡市の八幡堀(はちまんぼり)はとても人気のあるスケッチポイントである。私自身も何回かスケッチに行ったが、いつも周辺に何人かのスケッチ姿がみえる。しかし、八幡堀が人気を集めるようになったのは、比較的最近のことである。
 八幡堀はかつて近江八幡への貴重な物資輸送ルートだったが、いつの間にか忘れ去られ、ヘドロがたまり、悪臭を放つようになっていた。1970年(昭和45年)に、堀の幅を狭めて排水路とし、駐車場や公園を造る市の計画がスタートした。これに待ったをかけたのが近江八幡青年会議所で、八幡堀復活に向けて、署名活動や自主清掃活動を開始した。やがて八幡堀の保存修景運動は市民ぐるみのものとなり、1976年(昭和51年)から79年にかけて全面浚渫工事が行われた。さらに1982年(昭和57年)に国土庁の水緑都市モデル地区整備事業として石垣が復元され遊歩道も整備された。1988年(昭和63年)からは市民団体により月2回の除草作業が行われている。
 近江商人発祥の地である近江八幡市の八幡堀、新町通、永原町通一帯が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは1991年(平成3年)4月。近江商人は全国に活躍の場を広げたが、本宅や本店を近江八幡に置き続けたため、とくに新町通には財の蓄積ぶりを示す気品のある町並みが残っている。八幡堀の方は堀に沿って土蔵が並び、どちらかといえば“物流基地”だったのだが、長年にわたって続けられた復活運動によって、年中人通りの絶えない観光地として見事によみがえった。


                 伊丹郷町(兵庫県伊丹市)09年12月頒布
 伊丹郷町(いたみごうちょう)の歴史は織田信長の武将荒木村重が「有岡城」を築城した時に始まる。城下町を城郭の中に取り込んだ惣構えという築城法で造られ、伊丹郷町は堀割で囲まれた台地上に整備された。江戸時代に公家・近衛家の領地となり、酒造りの町として発展した。伊丹郷町の酒は樽廻船で江戸へ送られ大人気となり、江戸末期には200以上の銘柄があったという。しかし、灘五郷が江戸時代後半から急成長、一気に主役の座を奪われてしまった。
 伊丹郷町は現在のJR伊丹駅と阪急伊丹駅の中間に南北に広がっていた。今の地図には伊丹郷町という地名はないし、都市再開発が進んで、そんな歴史を感じさせるものはほとんどない。ただ、この一画に大手酒造メーカーの本社があり、国指定重要文化財の旧岡田家住宅を中心とした「伊丹郷町館」という施設もあるため、かつて有力な酒処であったことを感じ取ることができる。
 旧岡田家住宅は持ち主がたびたび変わったが、17世紀以降、一貫して酒造に使われたことが分かっている。1984年(昭和59年)に廃業、伊丹市の所有となり、その敷地内に文化施設を建設した。1992年(平成4年)1月、旧岡田家の店舗と酒蔵が重要文化財に指定された。ところが1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたため、解体修理することになり、ついでと言っては何だが、別の場所にあった旧石橋家住宅などをその隣に移築し、全体を伊丹郷町館とした。いわば行政が整備した平成生まれの歴史的町並みである。


              上三之町(岐阜県高山市)09年11月頒布
 高山は「歴史的町並み」だけで全国から観光客を集めている数少ない都市である。とくに町並みとして充実しているのが宮川の東側に広がる三町地区で、同地区のうち上一之町、上二之町、上三之町などが1979年(昭和54年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。戦国時代末期に領主となった金森長近によって整備された町割りがそのまま残り、三町地区は町人町として栄えた。江戸時代中期に幕府領(天領)になったことにより、さらに富の蓄積が進み、町並みにも磨きがかかった。
 町並みに一歩足を踏み入れると、黒々とした木組みと太くて粗い格子がまず目につく。「飛騨の匠」の伝統の技が生かされているのであろう。屋根は板葺屋根の伝統を引き継いだ勾配の緩やかなもので、軒が深いため「彫りの深い」家並みとなっている。
 せっかく高山に来たのだからと、観光客に一番人気の上三之町で描くことにした。狭い通りの両側に清らかな用水が流れ、町並みに風情を添えているのだが、おかげでスケッチする場所がない。ようやく歯科医院の前庭を見つけて椅子を置いた。
 高山では古風ないい宿に泊まった。「飛騨の高山とは呼ばれるが、岐阜県であることはなかなか理解してもらえなくて」と宿のご主人。旧国名が今でもこれほど生きている地域は「飛騨」以外にはほかはなかろう。いつもスケッチ目的なので、いわゆる観光に時間を割くことが少ないが、宿近くの宮川沿いで毎朝開かれる朝市は十分に楽しめた。味噌屋でふるまってもらった味噌汁の味が忘れられない。


             白川郷・荻町(岐阜県白川村)  09年11月頒布
 合掌造りの民家はかつて日本海に向けて流れる庄川に沿ってたくさんあったといわれる。しかし、1961年(昭和36年)に完成した巨大な御母衣ダムによって多くが水底に消えた。地元では強い反対運動も繰り広げられたが、工事に伴い取り壊されたり各地の民家園などに移築されたりした。その結果、合掌造り集落として残ったのは、ダム下流にある白川郷・荻町地区と県境を越えた富山県の五箇山地区(現南砺市)だけとなった。
 ともに重要伝統的建造物群保存地区に選定され、また1995年(平成7年)に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、ユネスコの世界遺産にも指定された。2008年(平成20年)には白川郷へも高速道路が通じた。今は押し寄せる観光客への対応という新たな課題を抱えているに違いない。
 合掌造りは、妻側から見ると大きな三角形をしていて、ちょうど両手を合わせたような構造になっていることからこう呼ばれ、養蚕業と大家族制度を背景として生まれた。内部は3、4階建てで、採光のために、妻側に多くの窓があり、独特の景観をつくっている。
 荻町地区の北側にある城山展望台が、この地区の景観の値打ちを倍加させている。展望台からの眺めはまさに息をのむ思いである。ここからの写真や絵はよく見かけるが、現地でのスケッチはあまり例がないと思い、あえて挑戦した。有名な風景なのでごまかすわけにもいかない。11軒の合掌造りを丁寧に追っていったら、さすがにぐったり疲れた。


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