郵趣サービス社 趣味の切手コレクション その2
蒲X趣サービス社によるコレクション用切手「日本の町並み スケッチ紀行」の頒布会がスタートしました。09年11月から11年6月まで20回にわたり、毎月2リーフ、全40リーフが頒布されました。このページはその後半分、20リーフです。

頒布されるリーフは、スケッチと同デザインのフレーム切手(50円)と、その町の風景消印および解説文で構成されています。








                 脇町南町(徳島県美馬市)11年6月頒布
 脇町は“四国三郎”と呼ばれる吉野川の流域にある。流域は「阿波藍」の栽培が盛んで、脇町はその加工流通拠点として栄えた。脇町は豊臣時代に城が置かれ、城下に各地から商人が集まったが、主力商品だった藍の商いが明治時代中期に最盛期を迎え、徳島、鳴門に次ぐ徳島県第3の都市に成長した。しかし藍が化学染料に押され、輸送手段も水運から陸上へ移るのに伴って、脇町の町並みは江戸や明治の香りを残しながら、現在に至っている。
 脇町の町並みを特徴づけているのは「うだつ」である。うだつには地方によっていろんな形状のものがあり、脇町のそれは1階の庇の上に置かれた袖うだつの一種だが、寄棟造りの本瓦葺き小屋根に鬼瓦まで載せた豪勢な意匠である。江戸中期に大火があり、それを機に普及したといわれるが、防火という機能面より、藍により蓄えられた財の証といえよう。同じ吉野川流域にある貞光(つるぎ町)や池田(三好市)の町でも同様のうだつが見られるが、こちらは葉タバコ生産による財力で揚げたものである。
 脇町南町が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは1988年(昭和63年)年12月だが、それ以前から地域を挙げて保存活動に取り組んできた。町並み修景だけでなく、図書館や中学校、それにすぐ近くにあるスーパーまでが、イメージを統一した建物なっている。脇町には2度スケッチに行ったが、2度ともそのスーパーの駐車場やレストランなどを利用させてもらった。2度目はまず、最も建築年代が古いという説明板のある「国見家」辺りを描いた。好みからいうとあまりにもきれいに修景された町並みは敬遠したくなるが、うだつの壁に少し傷みがあり、周囲の家々にも何となく長年の風雪を感じた。


                         郡山(大阪府茨木市) 11年6月頒布
 関ヶ原の戦いから4年後の1604年(慶長9年)、江戸を起点として、東海道、中山道などいわゆる「五街道」が定められ、一定間隔ごとに宿駅もおかれた。引き続き五街道以外の主要な街道として「脇往還」も整備されたが、その一つ、西日本の主要街道として京都から大阪を経由せずに下関へ向かう街道を「西国街道」とした。西国街道のうち、現在の国道171号線と並行するルートを通り、京都から西宮へ至る街道を「山崎道」と呼び、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽(こや)、西宮の6宿が置かれた。
 「郡山」といえば福島県や奈良県の都市名を思い浮かべると思う。大阪府茨木市の「郡山」は市内の一町名にすぎず、知名度も低いが、江戸時代には西国大名の参勤交代などで賑わう宿場町として、少なくとも現在よりは世間でよく知られていたはずである。 
 その旧西国街道の郡山宿だった場所に本陣の建物が現存し、1948年(昭和23年)に国の史跡に指定されている。正式には「摂津郡山駅本陣」というが、御成門(正門)の脇に椿の老樹があり、毎年、美しい花を咲かせていたため椿の本陣と呼ばれるようになった。建物は、1718年(享保3年)に類焼し、宿帳を除き貴重な古記録はなくなったが、3年後に再建されて以来、およそ280年間そのままの規模で残されている。
 普段はこうした建物を外からスケッチするだけなのだが、椿の本陣では事前予約の手続きをしたうえで内部を見学させてもらったことがある。当主自らが45分もかけて残されている宿帳などの資料についても熱心に説明してくれた。宿帳には、忠臣蔵で有名な赤穂城主・浅野内匠頭が、元禄時代の5年間、毎年宿泊した記録もあった。


                草津(滋賀県草津市)11年5月頒布
 草津宿は東海道53次のうち52番目の宿駅で、また東海道と中山道が分岐する地点でもあったため、江戸時代を通じ、とても重要な宿場として繁栄した。京都側から旧道をたどっていくと、二つの街道が分岐する追分に「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻んだ高さ4mほどの追分道標が建っている。中山道はその場所で草津川を渡っていたようだが、現在では天井川となっている旧草津川跡の下をトンネルでくぐる構造になっている。
 旧東海道の道筋は国道1号線と重なる部分が多いため、ほとんどの宿場町は都市化の波に飲み込まれてしまっており、かつての雰囲気を色濃く残しているのは三重県亀山市の関宿くらいである。草津市は人口増が著しい滋賀県第2の都市であり、JR草津駅に近い旧宿場町も商店街に埋もれてしまっている。端から端まで歩いてみても、江戸時代の面影を探すのは難しい。しかし、ここには珍しく本陣だった建物がほぼ完全な姿で残っている。
 本陣というのは公家や大名などのための宿泊施設で、宿場の中心的な役割を果たしていた。草津宿には田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣という2軒があったが、現存しているのは七左衛門本陣の方で、木材商も営んでいたため「木屋本陣」とも呼ばれていた。1949年(昭和24年)に「草津宿本陣」として国の史跡に指定された。草津宿と石部宿の間の宿(あいのしゅく)だった栗東市六地蔵にも旧本陣の建物があるが、東海道53次で本陣の建物が残るのは草津宿と愛知県豊橋市の二川(ふたがわ)宿だけである。
 草津宿本陣は有料で公開されており、見学者が絶えない。本陣の向かい、旧東海道の道端に座ってスケッチしている間にも、中学生の団体がぞろぞろと門をくぐっていった。


                七道(大阪府堺市) 11年5月頒布
 大阪・難波発の南海電車が大和川を越えて堺市に入ったところに七道(しちどう)駅があり、駅東側の堺区北旅籠町西に「旧鉄砲鍛冶屋敷」という建物がある。江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の建物だそうで、市の有形文化財に指定されている。前の道幅が狭いため「引き」がなくてスケッチに苦労していると、「昔は旅籠だった」という向かいの家のご主人が、わざわざゴミバケツを移動させて、私のために「引き」と日影を提供してくれた。 鉄砲伝来の地は種子島だが、その技術は紀州・根来寺の僧など複数ルートで堺に伝えられ、堺は戦国時代に近江・国友村(今の長浜市)とともに鉄砲の一大生産地になった。江戸時代まで、鉄砲は刃物や織物などとともに堺を支える産業であった。今でも七道駅の西北側には「鉄砲町」という町名も残っている。堺は安土桃山時代に貿易港としての地位を固め、堺商人の資本力によって自治的な都市運営を行ったことは有名である。豊臣秀吉によって自治機能は解体されたが、その後も堺商人は膨大な財力を持ち続けた。そうした財力がつくりあげた町並みがどんな様子だったのかを想像してみたくなる。
 歴史的町並みが残っているかどうかは戦災に遭わなかったということが第1の条件。堺は1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」で焼け野が原になり、太平洋戦争でも1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて5回にわたって激しい空襲を受けた。しかし、鉄砲鍛冶屋敷がある周辺はどうやら戦災を免れたらしく、歴史を感じる町並みが多少残っている。徒歩圏内の錦之町東には、大坂夏の陣の直後に建てられ、全国でも数少ない江戸初期の町家建築という国の重要文化財指定「山口家住宅」(堺市立町家歴史館)もある。


             綾小路通新町西入ル(京都府京都市) 11年4月頒布
 町家という言葉が最近幅広く使われるようになったが、もともとは京都市街地にある職住一体の建物、いわゆる「京町家」を指していた。平安時代の中ごろから建てられ始め、江戸時代中期に今に残る形に近いものになったという。太平洋戦争による空襲こそ受けなかったものの、京都の市街地はたびたび戦禍に見舞われており、現存する町家の多くは幕末の1864年(元治元年)に起きた「蛤御門の変」の後に発生した「どんどん焼け」と呼ばれる大火の以降に建てられたものである。
 その京町家が危機に瀕しているとして、200910月には世界の歴史的建造物などの保護を訴えている米国のワールド・モニュメント財団が京町家群を「ウォッチ・リスト」に加えた。京都市の調査によると市街地には47000軒を超える町家が残っているが、そのうち約3割は今すぐに修理が必要な状態だという。実際に京都の中心部を歩いてみると、町家は次々に取り壊されてマンションが建ち、空地やコインパーキングになっている個所が目立つ。
 京都一のビジネス街・四条烏丸交差点のすぐ近く、綾小路通新町西入ルに「杉本家住宅」がある。杉本家は江戸中期創業の呉服商「奈良屋」を営んでいた。江戸時代の京都経済は「江戸店持ち京商人」(えどだなもちきょうあきんど)と呼ばれる大商人が支えていたが、そうした1軒であった。市内に現存する町家では最大規模といい、20104月に国の重要文化財指定が決まった。現在は財団法人奈良屋記念杉本家保存会の手で維持されている。
 7月の祇園祭の時にスケッチに行くと、杉本家の前に「伯牙(はくが)山」が建ち、家の表玄関には幕が張られ、しめ縄も飾られて「ハレ」を演出していた。


                          山鹿(熊本県山鹿市) 11年4月頒布
 熊本県北部にある山鹿市内を抜ける旧豊前街道沿いに、国指定重要文化財の芝居小屋「八千代座」がある。こけら落としは1911年(明治44年)というから、ちょうど100年の歴史を誇る。1987年(昭和62年)に修復工事を行い、現役で活躍している。江戸時代に建てられた旧金毘羅大芝居・金丸座(香川県琴平町)、大正時代に建てられた内子座(愛媛県内子町)や嘉穂劇場(福岡県飯塚市)などの例を見ても、歌舞伎も演じられる大型の芝居小屋があるだけで、その町がかつていかに繁栄していたかの証ともいえる。
 山鹿は豊前街道と小倉街道などが交わる交通の要衝で、宿場町として栄え、菊池川による水運の拠点でもあった。また、市街地の中心部に温泉がわき、古くからの湯治場としても賑わった。8月には室町時代からの伝統があるとされる「山鹿灯籠まつり」があり、頭に灯籠を載せて踊る千人灯籠踊りで知られる。
 山鹿は今でも交通の要衝のため、福岡に住んで九州各地でスケッチしていたころは、その行き帰りに立ち寄ることが多かった。しかし、緩やかな湾曲と勾配のある旧豊前街道沿いにわずかだが古い町並みも残っているため、この町でスケッチすることを目的に訪ねたこともあり、いかにも伝統ある芝居小屋の風情を残す八千代座の姿も描きとめた。
 山鹿での何よりの楽しみは、数ある立ち寄り温泉でスケッチ後にひと汗流すことであった。なかでも市営「さくら湯」のプールのように大きな浴室が印象に残っている。山鹿温泉の元湯で1000年もの歴史があり、入口に立派な唐破風(からはふ)がついた建物だったが、残念ながら解体工事のため200911月に営業を休止、2012年春に再オープン予定という。


               今井町(奈良県橿原市) 11年3月頒布
 奈良盆地南部にある橿原市の今井町は、私の町並みスケッチの原点のような場所である。スケッチを始めたころ、たまたま司馬遼太郎の「街道をゆく、大和・壺坂みち」で「町そのものが博物館の廊下のようなにおいのする」というくだりを読み、さっそく出かけてみた。しかし狭い道の両側に本瓦葺きの重厚な建物がずらりと並ぶ様子をうまく表現できず、しっぽを巻いて逃げ出したものである。その後、何回訪問したことだろうか。いつの間にか今井町のスケッチが増え、町内でその絵はがきセットを売っていただく店までできた。
今井町は一向宗(浄土真宗)の宗徒が称念寺を囲んでつくった寺内町としてスタート、町の周囲に環濠を築いて織田信長配下の明智光秀軍と対峙したこともあるという。江戸時代に入って、天領(幕府領)となったこともあり、商業町として「大和の金は今井に七分」といわれるほど隆盛を極め、3人の惣年寄を頂点にした自治都市として運営された。
 かつて「今井千軒」と呼ばれた今井町は、東西600メートル、南北300メートルの地域に約650軒の民家があるが、その6割が江戸時代に建てられたもので、国の重要文化財指定の建物だけで9件を数える。周囲の環濠はほとんど残っていないものの、町割りなどは昔のまま。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは1993年(平成5年)で、比較的新顔だが、その規模と町並みの充実度は日本一だと思っている。
 町の西の端に惣年寄筆頭を務めていた「今西家」の住宅がある。江戸時代初期に建てられた「八棟造り」と呼ばれるお城のような建物で、内部にはお白州や牢まである。ただ、建物が立派すぎて正面からは描きづらく、いまだに背後からしか描いたことがない。


                 有松(愛知県名古屋市)   11年3月頒布
 有松は、東海道の鳴海宿と池鯉鮒(知立)宿の中間に、尾張藩の命令によってつくられた間の宿(あいのしゅく)としてスタートした。茶屋集落のため宿泊で稼ぐことができず、近在で生産されていた手織り木綿に絞り染め技術を組み合わせて「有松絞」を考案し、街道をゆく旅人相手にみやげ物として売り出したところ、東海道名物として人気商品になったという。以来、絞り染めの町として発展してきた。
 1784年(天明4年)に大火が発生、茅葺き屋根の絞り染め問屋が並んでいた集落は消滅してしまった。このため、町家は防火を考慮して瓦葺き、塗籠(ぬりごめ)造りで再建、今の町並みの原型ができた。旧東海道は現在の国道1号線とルートが重なるが、この付近は早めにバイパスができたので、町並みはそのまま残り、1984年(昭和59年)にはこの地区一帯が名古屋市から「有松町並み保存地区」に指定された。
 800m続く町並みは緩やかにカーブした旧街道に沿っているため、歩くごとに違った表情が現われ、スケッチポイントも多い。ちょうど中央付近に有松・鳴海絞会館があり、絞り染めの歴史や実演を楽しむことができるが、その向かい側に絞り染め問屋「服部家」の壮大な建物(愛知県指定有形文化財)がある。大火後の1790年(寛政2年)の建築で、防火機能もある「うだつ」を揚げ、街道に面した表蔵も防火に配慮したものといい、店頭販売をしていたころの名残とされる1階の深い庇が特徴である。
 家内と2人でこの町を訪ねた。家内は絞り染めの商品をあちこちで物色している様子だが、あまり無駄遣いをしないうちにと思い、その服部家を急いでスケッチした。 


                  竹原(広島県竹原市) 11年2月頒布
 広島県竹原市で「町並み保存地区」と呼ばれている町並みはJR呉線の竹原駅から東北へ徒歩10分余りの山裾にあった。駅前の繁華街や官庁街一帯はかつて広大な塩田であったという。江戸時代初期、遠浅の海に目を付けた広島藩が干拓事業を始めた。しかし塩分が多くて稲作には向かないため、いっそのことと塩田にしたところ大成功。塩の大産地となり、その財力で旧市街地の中心部に今も残る町並みができ、学問や町人文化も栄えた。
 竹原は頼山陽に代表される江戸時代の儒学の地でもあった。頼山陽自身は大阪(大坂)で生まれて広島で育ち、京都で没したというから、竹原との縁はあまりなさそうなのだが、頼一族には学者が多く、町並み保存地区内に祖父の頼惟清と、叔父の頼春風の旧宅が残っており、保存地区の入り口には頼山陽の銅像も建っている。
 保存地区の北の突き当たりにある頼惟清旧宅(県史跡)と恵比寿社が並んだ風景は魅力的なスケッチポイントであった。観光客が旧宅へ入るたびに自動で流れる説明テープの声が外まで聞こえ、スケッチしているうちに、来歴にもすっかり詳しくなった。
 1982年に国の伝統的建造物群保存地区に選定された地域は5haでそれほど広くない。しかし、中心の本町通に沿って、ウイスキーメーカー創業者の生家でもある造り酒屋の建物など重厚な建物が連続しており、町並みの充実度が高い。また、横丁へ入ってみるのも面白いし、山の手のお寺からの俯瞰も魅力的で、スケッチポイントには事欠かなかった。
 夕方、最後の1枚を描いていると、どこからともなくピアノの音が流れてきた。ふと、かつて栄えた町人文化の伝統を引き継いでいるような気がした。


                熊川(福井県若狭町)  11年2月頒布
 熊川は昔風にいうと若狭国(福井県)と近江国(滋賀県)の国境にある。熊川は今でも宿場町の面影を色濃く残しており、1996年(平成8年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたが、もともとこの町の基礎をつくったのは、豊臣秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政であった。熊川が交通・軍事面で重要とみて諸役免除にしたため、多くの人が集まり、物資の中継拠点、宿場町として発展したという。
 若狭の小浜から熊川を経て琵琶湖岸の近江今津へ至る道は「若狭街道」と呼ばれ、またこの街道から分岐して朽木経由で京都とを最短で結ぶ「朽木街道」を含めて「鯖街道」とも呼ばれた。古代から若狭の海産物は京の都へ運ばれており、18世紀後半から大量の鯖がこの道を通って京都へ運ばれたため、「鯖街道」という呼び方が定着したとされる。
 熊川の町へ一歩足を踏み入れると、山中にあるにもかかわらず、その規模が意外に大きいのにまず驚く。国道に並行した旧街道に沿い、約1kmにわたり、平入り、妻入りの古めかしい町家がずらりと建ち並んでいる。町並みは今津側から上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)と続き、中ノ町にはかつて町奉行所や問屋があり、中心的役割を果たしていた。旧熊川村役場だった木造洋館も残っている。
 何よりもこの町並みに風情を与えているのは、街道に沿って流れる水量豊かな用水である。宿場町時代から生活用水、牛馬の飲料水、防火用水として重宝されたものであろう。少し道がカーブした下ノ町の用水に架かる橋の上からスケッチしたが、家並みも入れたい、清流も入れたいと、少し欲張った説明的な絵になってしまった。


            ひがし茶屋街(石川県金沢市) 11年1月頒布
 加賀百万石の城下町だった金沢は京都とともに戦災に遭わなかった大都市で、有名な兼六園があり、伝統文化の集積も厚い。このため歴史的町並みの宝庫のように思われがちだが、商家などの町家で構成される古い町並みはあまり残っていない。立派な商家の建物はあっても、市内にポツンポツンと散在している。いわゆる町並み保存ということには、あまり市民の関心がなかったのかもしれない。
 金沢の歴史的町並みといえば、「ひがし」(東山1丁目)、「主計(かずえ)町」、「にし」(野町2丁目)の3カ所の茶屋街および長町の武家屋敷町がその代表的な存在で、いずれも多くの観光客を集めている。3茶屋街のうち、ひがし茶屋街と主計町茶屋街が浅野川を挟んで向かい合っているが、最も格式が高いといわれるひがし茶屋街は、江戸時代後期の1820年(文政3年)に茶屋街として整備された。1番丁から4番丁までの通りがあり、中心的な2番丁は通りの幅も広く、加賀大工の手になる優美な町並みが残されている。とくに茶屋の1階を飾る木虫籠(きむすこ)と呼ばれる繊細な加賀格子が特徴である。
 ただ、スケッチする立場からいうと、通りの両側の軒の線がほぼ一直線で変化に乏しく、ちょっと絵にしにくい。訪問した時は3月末だったので、家々の前に桜まつりか何かのぼんぼりが立ち、町並みに彩りを添えていたので助かった。俯瞰が描けないかと思い、正面に見える山にも登ってみたが、残念ながらあまり好みの場所はなかった。武家屋敷町にも行ったが、こちらは他の城下町にも共通で、塀と門しか残っていない。結局、一番気に入ったスケッチポイントはひがし茶屋街の外れにある旧観音町という一筋の通りであった。


              豆田町(大分県日田市) 11年1月頒布
 重厚な町並みが残っている町は江戸時代に幕府領(天領)だったところが多い。九州各地への交通の要ともいえる位置にある日田も天領であった。日田はもともと豆田町と隈町という二つの城下町で構成されていたが、天領になって豆田町は代官所支配下の城下町となり、隈町の方は商業町として栄えた。とくに代官から「掛屋(かけや)」に指定された豪商が大名貸しなどの金融事業を行い、この資金は「日田金(ひたがね)」と呼ばれた。
 江戸時代中期の1772年(明和9年)の大火で町の大半が焼け、明治維新後の混乱期にこの地方で起こった「竹槍騒動」でも主要な建物が打ち壊しに遭ったという。しかし、そうした試練を乗り越えて、歴史的な町並みは残った。昭和の初めに豆田町と隈町のちょうど真ん中に鉄道が開通、日田駅周辺が新しい町の中心部となったため、再開発を免れた。また、日田駅の南側にある隈町の方は戦後になって温泉が出たため、温泉旅館街になったが、北側にある豆田町の方はいわば取り残された形となっていた。
 1983年(昭和58年)に「豆田町町並み保存推進協議会」ができ、町並み保存運動が始まった。放置されていた建物を休憩所や土産物店、レストランなどに活用する一方、旧家に保存されていた雛人形を展示するなどのイベントで観光客を呼び込む工夫もした。豆田町が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは2004年(平成16年)12月で、まだ新顔だが、人気度ではすでに九州を代表する歴史的町並みの一つに数えられている。
 豆田町の北側の川沿いに長々と連なるクンチョウ酒造の酒蔵が見える。話によると「5棟の酒蔵すべてが建築当時の姿で残っている珍しい酒蔵群」といい、町並みによくとけ込んでいる。


                勝山(岡山県真庭市)  10年12月頒布
 中国地方の町家の特徴として、ナマコ壁が効果的に使われていることがあげられよう。壁面に平瓦を貼り付け、目地(継ぎ目)を漆喰で固めたナマコ壁は、もともと壁を激しい風雨や火事から守るためのもので、伊豆半島南部の松崎や下田のものが有名。そのほかの全国各地にも見られるが、山陽、山陰を問わず中国地方の町家ではナマコ壁が極めて装飾的に使われ、町並みに豪華さを加えている。中国山中の街道筋にある小都市の津山や勝山を訪問して、やはり一番印象に残ったのはナマコ壁であった。
 旭川の中流域の小盆地にある勝山は、岡山との間を往復していた舟運の終点で、たたら鉄や木材の集散地として栄えた。また山陽と山陰を結ぶ出雲街道の宿駅でもあり、城下町としての歴史もある。町内の高台には武家屋敷町の遺構も残されているが、スケッチ対象としては、出雲街道や旭川に面した町並みが魅力的である。
 旭川に沿った南北一筋の街道筋には古い商家の建物が軒を連ねており、それぞれの家に意匠を凝らした暖簾を掛けているのが、まず目に入る。ある染織工房が、町おこしのためにと呼びかけたのがきっかけとなり、家々が自己負担で暖簾を掲げた。暖簾を見て歩くだけでも楽しく、町の人の暖かい心が伝わってくるような気がする。
 町並みの北端に豪華にナマコ壁を巡らせた土蔵を持つ造り酒屋があった。窓の扉には見事な鏝絵まで描かれている。路傍に「映画・男はつらいよロケ地」との石柱が建っていた。シリーズ第48作(最終作)の撮影がここで行われたといい、山田洋次監督のおめがねにもかなった町並み風景である。


             五箇山・相倉(富山県南砺市) 10年12月頒布
 民謡の「こきりこ節」や「麦屋節」で知られる「五箇山」は、そこにお住まいの人たちには失礼ながら、以前は秘境の代名詞のような響きを持つ地名であった。もちろん自治体名ではなく、平村、上平村、利賀村を合わせた地域名だったが、2004年(平成16年)11月に周辺の8町村が合併して発足した南砺市の“市域”となった。庄川に沿った国道156号線に加え、1984年に国道304号線の五箇山トンネルが開通して、交通も飛躍的に便利になり、20087月にはこの地域を通る東海北陸自動車道も全通した。
 平家の落人が住み着いたと伝えられ、浄土真宗との深いかかわりがあり、また江戸時代には火薬原料の塩硝(煙硝)を生産していたという歴史もあるが、何よりも合掌造りの里として世間の知名度が高い。なかでも合掌造り民家が集中している旧平村の相倉と旧上平村の菅沼の2集落は、1970年(昭和45年)に国指定史跡となり、1994年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、さらに1995年には岐阜県の白川郷とともにユネスコの世界遺産に登録された。
 すでに白川郷・荻町の項でも触れたが、合掌造り民家はかつて庄川流域に幅広く分布していた。専門家ではないので白川郷と五箇山の合掌造りの違いについて詳しくは分からないが、一目見て、その大きさに違いがあり、明らかに五箇山の方が小ぶりである。また、入口の場所が違い、白川郷が平入りなのに対し、五箇山は妻入りである。
 気持ちよい秋晴れの日に、スケッチ仲間と相倉を訪れた。もう少し高い場所から描きたかったが、時間がないため、神社の裏手へ上り、合掌造りの家々がひしめく様を描いた。


                吹屋(岡山県高梁市) 10年11月頒布
 お手元の地図で「吹屋」の位置を確かめてほしい。岡山県西部、周囲は山また山である。くねくねとした山道を登って行き、道を間違えたのではないかと不安になり始めたころ、突然、吹屋の町並みが目の前に現れる。どうしてこんな山の中にこんなに整った町並みがあるのかと不思議に思え、その意外性が吹屋の町並みの最大の魅力でもある。
 山の中にある理由は、この町が銅山で発展したから。銅山の歴史は古く、平安時代初めの開坑だそうで、江戸時代には幕府直轄となっていたが、しだいに鉱脈が細った。そんな折、銅精製の廃棄物から出る酸化鉄を利用したベンガラの生産に着目した。ベンガラは木材などに塗る赤色塗料として知られるが、吹屋のベンガラは高級な赤色顔料として有田焼、九谷焼、清水焼といった焼き物や漆器にも使われていたという。京都・祇園のベンガラ格子の赤も、有田「柿右衛門」の赤も吹屋産だったわけである。
 銅山は昭和の初めに完全に閉山となったが、ベンガラの生産は江戸時代中期から1965年(昭和40年)まで約270年間も続き、吹屋の繁栄は銅山のころを上回った。今に残る豪勢な町並みはベンガラによる財力で造られたものである。
 一歩、町並みへ足を踏み入れるとさすがにベンガラで塗られた家々が多い。それよりも屋根瓦の赤の方が目立つが、こちらはベンガラとは関係がなく、本来は山陰特有の石州瓦の赤である。高梁市ホームページによると、当時の豪商が、個々に豪華な家を建てるのではなく、相談して石州(島根県)から大工の棟梁を呼び、統一した町づくりをした結果という。こうした事例を他の町で聞いたことはなく、驚くべき先進性ともいえる。


               妻籠(長野県南木曽町) 10年11月頒布
 「妻籠」は町並み保存運動の原点となった町である。1965年(昭和40年)に、過疎化が進み荒れ放題になっていた宿場町を修復・保存することによって観光資源としてよみがえらそうという取り組みが始まった。文化財としての保存対象を個別の建物という「点」から、町並み全体や周辺の環境まで含めた「面」に広げた意味でも注目され、1975年に重要伝統的建造物群保存地区という制度が生れる引き金にもなった。
 妻籠宿は中山道・木曽11宿の一つだったが、明治になって宿駅制度が廃止され、しかも新しい国道(現19号線)や鉄道(現JR中央西線)が、妻籠を迂回する形で木曽川沿いのルートに建設されたため、一気に寂れた。その後、林業などに頼っていたが、昭和30年代の高度成長経済下で、若者が町を離れ、過疎化も進んだ。
 地元住民の間で始まった保存運動は、19688月、長野県の明治百年記念事業の一つに加えられ、翌年から3カ年計画で街道沿いの家々について、解体復元、大修理、中修理、小修理が行われた。19717月には建物、屋敷、山林などの観光資源について「売らない、貸さない、壊さない」を3原則とした住民憲章ができた。重伝建地区としての保存エリアも1245.4haと、他の選定地区に比べ一ケタ違う広範囲となっており、周辺の山林など自然環境にも保存の網をかぶせたのが特徴的である。
 そのおかげで妻籠は観光バスが押しかける大観光地に変身した。宿場町の外れに復元された高札場が見える場所でスケッチしたが、外国人グループから高校生の団体まで大勢の観光客に取り囲まれ、私自身が何回か彼らの被写体になるという羽目に陥った。


                     海野(長野県東御市)10年10月頒布
 町並みスケッチを始めたころ、「うだつ」に強い関心を持っていた。うだつは機能面では防火壁ととらえられているが、多分にその家の繁栄の証というか、装飾的色彩の方が強い。美濃(岐阜県)など中部地方に多く見られる「本うだつ」のほか、脇町(徳島県)に代表される「袖うだつ」などのタイプがあるが、豪壮な本うだつや袖うだつを揚げた家々が並ぶ海野(うんの)の町並み写真を見て、いつかは訪問したいと思っていた。

 海野は中山道と北陸道を結んでいた北国街道の宿場町として発展した。しかし明治時代になって信越本線の開通もあり、宿場町としての役目を終えた。ところが、そのころ全国で盛んになった養蚕業に向けて種紙(たねがみ=台紙に蚕の卵を産みつけたもの)を生産することで町は息を吹き返した。養蚕農家は毎年、蚕の種を買う必要があるが、海野では宿場時代に使われた大部屋を利用して種紙を生産、品質の良さもあって、町は宿場町時代以上の繁栄となったといわれる。
 うだつを揚げた海野の家々は明治以降に建てられたもので、屋根の上には「気抜き」と呼ばれる養蚕農家特有の装置も付いている。ただ、早めに町並みを迂回する国道バイパスができたことにより、宿場町時代の建物も残り、町並み全体は宿場町の雰囲気を残している。とくに道路の中央に流れる水路が往時を偲ばせる。
 家並みのすぐ後ろを旧信越本線の線路が走っている。スケッチの合間に線路際まで行ってみた。線路はいかにも立派だが長野新幹線の開通に伴い列車本数は少ない。かつて宿場の息の根を止めた鉄道が、今度は同じような運命に直面しているような気がした。


                打吹玉川(鳥取県倉吉市)10年10月頒布
 鳥取県中部にある倉吉は、江戸時代に「倉吉絣」や「因州倉吉千刃」で大いに栄えた。千刃(せんば)というのは、鉄製の刃で稲穂をしごいて籾を取る装置で、日本の農業生産性を一気に高めた。倉吉で考案されて全国に普及、全国シェアの80%を占めたといわれる。こうした産業の蓄積が今に残る町並みを造りあげた。
 1998年(平成10年)に倉吉市中心部の「打吹玉川地区」が重要伝統的建造物群保存地区に選定された。実際にはこの町名はなく、かつて城があった「打吹山」とその裾を流れる「玉川」を組み合わせた呼び方で、玉川沿いに建ち並ぶ白壁土蔵群が町並みのポイントになっている。玉川は鉄材や鉄製品といった重量物の輸送にも使われた。
 島根県から鳥取県にかけて「石州瓦」と呼ばれる赤い瓦で葺かれた民家が多い。出雲地方で採れる「来待石」(きまちいし)という鉄分を含んだ石から抽出する釉薬を使った瓦で、雪に強い特徴があるが、スケッチする立場からも、色彩的に変化があって魅力的である。倉吉の町並みはもちろんこの赤瓦が特色である。
 重伝建地区は玉川を中心とした狭い地域で、川沿いの土蔵は各家の裏口でもある。スケッチに行った2000年当時は、崩れたまま放置された土蔵もあり、また家の表側の通りの一部にはアーケードが設置されていて、景観を楽しむことはできなかった。しかし、2003年に地区内で火災が発生したのを機に、改めて町並み整備を行い、2007年にはアーケードも撤去したと聞いた。また、倉吉市は1985(昭和60年)から公衆トイレの整備に取り組み、トイレマップまで用意している。観光客にはとても嬉しいもてなしである。


               長谷寺あたり(奈良県桜井市) 10年9月頒布 
 長谷寺はその創建の時期や事情がはっきりしないというほど、長い歴史を持ったお寺である。古くは初瀬寺と呼ばれたが、平安時代になって貴族の間で観音信仰が盛んになり、「初瀬詣で」がブームとなった。そうした事情が「枕草子」や「源氏物語」といった古典文学でも取り上げられている。室町時代になると庶民の間で初瀬詣で加えて伊勢神宮への参拝が広まったため、大和の国から初瀬を経て伊勢へ至る街道筋は大変な賑わいをみせた。
 また、最近は「花の寺」とされ、春は桜と牡丹、夏はアジサイ、秋は紅葉、冬は寒牡丹と境内には年中花が絶えず、とくに4月から5月にかけての牡丹の季節には、7000株もの牡丹が咲き誇り、押しかける観光客で駐車場や門前町も満杯。私の目的は町並みスケッチなので、なるべくそうした時期を避けて訪問することになる。
 長谷寺の門前町は、江戸時代にたびたび火災や水害に見舞われたそうだが、それでも長い歴史を感じさせる旅館などの建物が軒を連ねている。国道165号線から分岐した参道は初瀬川(大和川の上流)に沿って長々と続き、お寺の手前で直角に折れて仁王門へと向かう。その曲がり角を直進すると、小さな神社に向かう橋が初瀬川に架かかっていて、その橋の上が絶好のスケッチポイントである。
 視野全体に本堂(国宝)や登廊(のぼりろう=重文)など長谷寺の建物群が広がり、手前の門前町との対比や初瀬川の様子が面白い。長谷寺への参拝客はこの橋を通らず、橋の前後が階段のため、車も入ってこない。ただ、何しろ人気のスケッチポイントだけに、大勢のスケッチグループと鉢合わせすることもある。


                 川越(埼玉県川越市)  10年9月頒布
 歴史的な町並みが残っている都市へのほめ言葉として「小京都」というのがあり、全国京都会議という組織には50近い市や町が加盟している。そのほかに小京都を“自称”している自治体もあり、逆にいえばあまり珍しくない。ニュアンスがよく似た言葉に「小江戸」があり、仲間はあるものの、こちらはとくに「川越」のためのフレーズともいえよう。
 小江戸とは「江戸とのかかわりが深かった町」とか「江戸の風情を残す町」という意味であろう。確かに川越の発展過程をみると、政治的にも経済的にも江戸とのかかわりが深かった。また、江戸時代後期に耐火建築として江戸で盛んに建てられたとされる蔵造りの建物が建ち並ぶ様を“江戸の風情”と呼ぶのもうなずける。
 1893年(明治26年)に川越の市街地の大半を焼きつくす大火が発生、その後、蔵造りの建物がいっせいに建てられたという。今に残る“蔵の町”は、実は江戸ではなく、明治の町並みなのである。町並み保存運動は、1983年(昭和58年)に「川越蔵の会」が設立されたことがきっかけとなった。1987年には蔵造りが多く残る川越一番街商店街のメンバーに専門家も加えた「町並み委員会」が発足、住民主導型の保存運動が本格化した。
 東武東上線の川越駅で「バスに乗った方がいいよ」といわれたが、何となく歩いてアプローチしたかった。蔵造りの建物は他の町でも見かけるが、これほど巨大な鬼瓦を乗せた重厚な屋根を見たのは初めてで、黒漆喰の壁も建物全体を無骨な感じにしており、こうした建物が連続して建ち並ぶ景色に圧倒される思いであった。この時は仕事のついでのスケッチで時間不足だったため、再度、腰を据えてスケッチしたいと思っている。


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