三重県

須賀利(尾鷲市)

熊野灘に突き出た岬の突端にある「須賀利」は尾鷲市の飛び地になっており、昭和57年に県道が通じるまでは尾鷲港からの船便しか交通手段がなく、文字通りの陸の孤島だった。須賀利は漁業一筋に歩んできたといえるが、江戸時代には「風待ち港」として諸国の廻船が寄港したという輝かしい歴史がある。スケッチする立場からいえば、何よりの魅力は狭い土地を埋め尽くす甍の波である。(このページの記述は、三重大学など編纂の『日本の小さな漁村須賀利』〈07年11月〉を参考にしています)

須賀利@(尾鷲市)11.09.28     36×51cm
とりあえずの1枚目は高台に上り、甍の波に挑んだ。東向きなので逆光気味の山や海が印象深い。ついそれらに関心が行ってしまい、肝心の家並みを描くスペースがなくなってしまった。

須賀利A(尾鷲市)11.09.28      F6



須賀利の集落を見下ろす高台に普済寺というお寺があり、そこへ上る石段から眺める家並みも絵になる。日向でも描ける季節になったので、石段に座り太陽にさらされながら描いてみた。石段の途中に「海抜10メートル」との表示があった。須賀利は宝永4年(1707年)、嘉永7年(1854年)、昭和19年(1944年)、昭和35年(1960年)に津波の被害を受けている。東日本大震災の記憶が新しく、東南海地震の発生が危惧されているだけに、その表示がとても生々しかった。

須賀利B(尾鷲市)11.09.28     36×51cm
須賀利は江戸時代はマグロ漁、明治から大正、昭和時代には遠洋漁業で栄え、こうした立派な家並みができた。最近はタイ養殖を主力にしているが、漁業にかつてほどの勢いはなく、過疎化、高齢化、少子化が同時進行しているという。人口が一番多かった昭和30年には1400人近かったが、現在は300人ほどで、空き家も目立つ。集落の西の外れに須賀利小学校の建物がある。昭和34年には215人の児童がいたが、平成12年に児童数が3人まで減ったため、休校になってしまった。現在の小学生はゼロと聞いた。
昼になったので高台の木陰でおにぎりをほおばりながら、2枚目の俯瞰に挑んだ。木陰を潮風が吹き抜け、まだセミ(ツクツクボウシ)の声も聞こえる。こうした気持ちの良い環境でスケッチするのはいかにも贅沢である。

須賀利C(尾鷲市)11.09.28     F6
須賀利の町を「中通り」と防波堤に沿った海岸通りの2本の道が貫いている。海岸通りは昭和34年の伊勢湾台風後に防波堤とともに整備されたが、中通りは古くからの目抜き通りで、かつては問屋、旅籠、船宿などが並んでいた。その中に「末広湯」という風呂屋の建物があった。正面に唐破風を設け、2階には座敷もある建物で、かつては人口も多かったし、定置網漁に大手漁業会社の社員もやってきたため、連日大にぎわいだったという。しかし、昭和47年1月に廃業に追い込まれた。

須賀利D(尾鷲市)11.09.28     F6
須賀利の町を見下ろすように普済寺というお寺が建っている。最初はそのお寺の周辺から俯瞰を描いたが、今度はその絵に描き込んだ東側の高台に上ってみた。普済寺は1624年(寛永元年)の創建で、幕末の1861年(文久元年)に再建されたという。当時の須賀利は特別に開発されたマグロ網により、マグロの漁獲量が飛躍的に増加し、とても豊かだった。このためお寺も大変贅沢な建築となっており、竹中工務店の祖である宮大工の竹中和泉(竹中9代目)が再建棟梁を務めたという。

須賀利E(尾鷲市)11.09.28     F6



須賀利には駐車スペースがまったくなかったが、村の人に聞いて、現在は使われていない小学校の入り口スペースに置かせてもらった。その車へ帰る途中、普済寺への石段が面白そうなので、最後の1枚にすることにした。石段はわざわざ数えたFさんによると110段あるらしい。お寺の手前、屋根に温水器を載せた建物は教員住宅だったが、これも現在は使われていない。

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