広島県

竹原(竹原市)

竹原は瀬戸内海に面した港町だったが、江戸時代初期、遠浅の海に目を付けた広島藩が干拓事業を始めた。しかし塩分が多くて稲作には向かないため、いっそのことと塩田にしたところ大成功。塩の大産地となり、その財力で旧市街地の中心部に今も残る町並みができた。地元では「安芸の小京都」と呼んでいるが、京都にはこれほど豪勢な町並みは残っていない。

竹原@頼惟清旧宅あたり(竹原市本町)09.10.15      36×51cm 
竹原は頼山陽に代表される江戸時代の儒学の地でもあった。頼山陽自身は大阪(大坂)で生まれて広島で育ち、京都で没したというから、竹原との縁はあまりなさそうなのだが、頼一族には学者が多く、町並み保存地区内に祖父の頼惟清と、叔父の頼春風の旧宅が残っており、保存地区の入り口には頼山陽の銅像も建っている。というわけで、1枚目はその頼惟清旧宅に焦点を当てた(絵の右側)。昔は紺屋だったそうで、広島県史跡に指定されている。

竹原A・西方寺から(竹原市本町)09.10.15      36×51cm
竹原の町並み保存地区はそれほど広くないが、そのちょうど中央部の山手に「西方寺」というお寺があり、その石段から眺めた家並みが面白く、絵や写真によく取り上げられている。石段を門まで上がると見晴らしがよくなるが、古い町並みの向こうに広がる市街地が見えすぎ、描くのが面倒なので、石段を半分下りた場所に座った。裏手の山に同寺の「普明閣」という建物があり、さらに見晴らしがよいそうだが、息が切れそうなので、上ることも割愛した。
 
2016年3月23日、西方寺の石段下で火災があり、当時は「重伝建で火事」と話題になった。広島在住の「いらかぐみ」メンバー・孫右衛門さんが、早速、現地に撮影に行かれ、その写真を提供いただいた。上の絵は「2度と描けない」貴重なものとなった。



 

竹原B・西方寺あたり(竹原市本町)09.10.15      F6
竹原Aを描いた西方寺の石段を下から眺めた。古い家並みが続く本町通の町並み保存地区で、この場所だけがぽっかり空き地になっている。そのため西日を受けた白壁が印象的だった。左側の建物にはこの町で最初の郵便局との説明板があった。

竹原C・竹鶴酒造あたり(竹原市本町)09.10.15      36×51cm      
竹原の本町通南端近くに竹鶴酒造の建物がある。入母屋、妻入り、黒漆喰の3棟が連続しており、ひときわ目を引く。竹鶴家は古くから製塩業と酒造業を営んでおり、この家で「日本のウイスキーの父」と呼ばれるニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝氏が生れた。ネットで確認すると、政孝氏は分家筋の三男で、イギリス留学後、寿屋(現サントリー)の山崎蒸留所で初代工場長を務めたあと、北海道に大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立したという。本家の竹鶴酒造は昔も今も日本酒づくり一筋。

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