静岡県

下田(下田市)

伊豆半島の東南端にある下田は江戸時代には江戸と大坂を結ぶ航路の風待ち港として栄え、下田奉行も置かれていた。嘉永7年(1854年)に締結された日米和親条約で下田は函館とともに開港場となり、アメリカの総領事館が置かれるなど脚光を浴びた。市内中心部には風雨に強い「なまこ壁」を巡らせた民家がたくさん残っている。

下田のなまこ壁(下田市1丁目)07.05.26 36×51cm
伊豆半島南部の民家の特徴は「なまこ壁」ということなので、とりあえず伊豆急行下田駅からほど近い下田市1丁目(なぜか町名なしにいきなり丁目)にある鈴木家を描くことにした。昔、雑忠(さいちゅう)という屋号で廻船問屋を営んでいたという。なまこ壁は中国地方などでもよく見られるが、それらの多くが装飾的な色彩が強いのに対し、下田では風雨に強いというその機能性を重視し、家全体がなまこ壁に包まれている。描くのは本当に手間がかかる。

下田港(下田市3丁目)07.05.26 36×51cm       H氏蔵
初めて伊豆半島へ行って、その山並みがとても険しいことが印象に残った。江戸幕府が半島の南端に近い下田の港を開港場に選んだ理由が分かるような気がした。下田はその背後の山々のおかげで、鉄道などがない時代にはまさに陸の孤島。江戸湾に入ってきたアメリカ人を「隔離」しておくにはもってこいと考えたのだろう。そうした下田の雰囲気を少しでも感じられる場所はないかと探した結果、ペリー提督上陸記念碑の近くで船だまりを描くことにした。











ご覧いただいてお分かりの通り、この絵は私のものではありません。かつて仕事でもつき合いがあり、その後、絵の先輩として何かとお世話になった柴崎穂積さんの遺作です。柴崎さんは私が伊豆を訪ねるほぼ1カ月前の4月23日から26日まで伊豆を訪問され、最後の力を振り絞ってこの絵を描かれました。「日本百名山」のスケッチに取り組むなど、生涯、数え切れないほどのスケッチをされたましたが、この絵が最後になりました。
07年8月16日、京都五山の送り火を見られたあと、午後11時50分に亡くなられました。ご冥福をお祈りし、ここに作品を掲載します。

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